この記事は中国のブロガー「浅斟低唱」さんのブログの文章を、「浅斟低唱」さんの了承を得て、日本語に訳したものです。「浅斟低唱」さん、ありがとうございました。
原文は以下のページにあります。
http://blog.sina.com.cn/s/blog_497eb3610100c4m3.html
远观近觑皆俨然——再说《牡丹亭》(2009-03-22 19:43:26)(←原題)
「遠くより眺めても近くより見ても皆儼然たり-再び『牡丹亭』を語る」
(注:「儼然」というのは「彷彿とさせる」という意味で、『牡丹亭』「驚夢」で柳夢梅が杜麗娘の夢の中に現れた時に、彼女に向かって「どこかで会ったことがあるような」というセリフがありますが、その時に使われる言葉です)
まず、話の「まくら」に少し…
“3・15”運動をメディアのウソや大げさな話、空ごとも、偽物一掃の範囲に入れるよう、強く呼びかけます!
(注:中国では最近3月15日を「消費者の権利を守る日」として、商品の劣悪品や偽物を告発したりして消費者の権利を守ろうという運動が行われるようになっている。)
この数日、メディアの報道を少し気に掛けていたのだが、全く泣くに泣けないような有様。「生粋の蘇州語のセリフ」とか、「純正な昆曲の唱の節回し」云々。個人的な体感では、生粋でないセリフや唱の節回しも、坂東玉三郎の魅力を全く損なわないのだ!
本当のことを言うと、坂東玉三郎の喉は通常の女性役のように鳥のさえずるような声ではない。うちの娘の言葉を借りれば「高音が良く通っていて、程派(京劇の流派)を習うのに相応しい」ような声。顔の表情は「豊か」ではなく、仕草も変化に乏しい。彼の演技は明らかに歌舞伎の芸の痕跡を帯びている。しかし幕が開いたその時から、遠くから眺めようが近くから見ようが、観客の目の前に現れた彼は、明らかに杜麗娘そのものであった。
杜麗娘は高級官僚の家に生まれ、父は政務に追われ、母は仏心厚く、彼女は家のしつけや道徳観念によって、深窓に閉じこめられ、本を読むのでなければ刺繍をするという、“原来姹紫嫣红開遍,似这般都付于断井颓垣......”,
(注:「游園」の一節、本当は花盛りだと思っていた庭園が荒れ果てているという意味で、庭を妙齢の杜麗娘に喩えている)
正に妙齢の少女が、“関関雎鸠,在河之舟;窈窕淑女,君子好逑......” に引きつけられて、景色に触れて情を生じた。
(注:『詩経』の一節で、君子はみめ麗しき女性と結婚するという件で、昔の中国では女性が読むべき古典として位置づけられていた。『牡丹亭』では「游園」の前に杜麗娘が家庭教師からこの一節を学ぶ一幕があり、そのことが、杜麗娘が自分も夫が欲しいと思うきっかけになっている)
春の景色を目の前にして、自然と彼女は、体一杯の愁い、渇望が溢れんばかりになった。坂東玉三郎は、登場人物の、「游園」の時の傷春の感慨や、「驚夢」の時の、話したいけれども声に出せない恥ずかしさ……などを適切にかつ鮮やかに表現する。振り返って微笑み、体の向きを変える間に、一人の内気で春を思う女の子を正確に再現した。
「離魂」一折は更に素晴らしく、初めの一文“人間何物似情濃(この世には情より濃い物はない)”から最後の一文“但願那月落重生灯更紅(願わくは、月が落ちても再び生き返れるように)”まで、一言一言に深い情が含まれていて、この時の杜麗娘は完全に,病気の体を支えにくい様子で、彼女の憔悴や力のなさは、舞台上の春香を演じる俳優をそれに感動し(本当に涙がキラキラしていた)、舞台の下の人達も絶えずしゃくり上げ、舞台の上と下で、濃い悲しみの中に浸っていた。――この「離魂」の歌詞を私はよく知っているわけではないが、完全に彼の演技に引きつけられて感動して……
『牡丹亭』の異なる公演のバージョンを見てきたが、しかしながら、“アマチュア”の坂東玉三郎の公演は、こんなにも他の人の薄っぺらさを感じさせられた。坂東玉三郎は「遠くから眺めても近くから見てもみな杜麗娘を彷彿とさせる」とも言うべきだが、私達の俳優達は、ただ「演じている」だけ! 役を演じることと自分を演じることとは、天地の差!
坂東玉三郎の『牡丹亭』は已に何度も演じられているというが、もちろん主に日本でのことである。
インターネットから探した写真や動画から見ると、蘇州行の公演では、舞台は最も簡素で、舞台上は(中国伝統劇の伝統的な舞台装置である)一つの机と二つの椅子以外に、他のものはない。後ろの背景は天幕には特に何も飾りもない。先の数幕にたまに少し花模様のある白い薄い幕も含めて、全体的な色彩は、真っ白か、もしくは真っ黒か、純粋なことその人と同じである。華やか(な舞台装置)を見慣れた私達には、目の前がすぐ凛として、たちまち、清々しい感覚に至る。このような舞台は『牡丹亭』のストーリーに適切であり、更に私達が観劇に注意力を集中させるのに有利である。
坂東玉三郎の『牡丹亭』は、一部の場面の楽器に、簫を加えた。本来の形らしくないと異を唱える人もいるが、私のようなミーハーは違う見方で、簫の音色の、幽遠な怨み、広々としたさま、更に少しもの寂しいところは、まさにストーリーに合っており、ストーリーが描く雰囲気を突出させて、一分の隙間もなく、大変感動的である。
私は昆劇の真髄のありかがこのような感覚を与えるのかどうか知らないが、一つの机に二つの椅子という伝統は誰でも知っており、ただ業界人が功名心にとらわれて、むやみに新しいものを作るものだから、目がちかちかするような現状を招いているのである。しかし、もしも私の感覚が間違いでないのならば、かえって人を傷心させ、ひいては気まずい思いをさせてしまうだろう。私達の伝統劇の、真髄の再現は、自分達自身にあるのではなく、一人のアマチュアにすぎない異国の芸術家の身に存在するのだから。
総じて言うと、
姑蘇凝睇看坂東, 姑蘇にて目を凝らして坂東を見れば、
月落重生灯再紅; 月落つるも重ねて生じ、灯再び紅くならんことを。
挙手投足自羞怯, 挙手投足、おのづから恥じらいを帯び、
最是回眸春波動; 最もなるはこれ、回眸して春波の動じるとき、
遠観近覷皆儼然, 遠くより眺め近くより見ても皆彷彿たり
誰信麗丽娘客串中?! 誰が信ぜん、麗娘の客串の中たらんとは?!
(詩の訳:蘇州で目をこらして坂東玉三郎の「月が落ちて自分の生が終わっても再び生き返って命の灯を赤く燃やせるよう」と唱うのを観劇した。彼の一挙手一投足は、自然と恥じらいを帯びており、一番感じたのは振り返って視線を送った時で、遠くより眺めても近くから見ても、いずれも杜麗娘を彷彿とさせた。杜麗娘が客演の俳優の中にいるとは誰が信じるだろうか)
最近のコメント